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王常 (後漢)[おう じょう]
王 常(おう じょう、? - 36年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。後漢草創期の功臣の1人。字は顔卿。豫州頴川郡武陽県の人。父は王博。子は王広。最初は緑林軍の部将、下江軍の頭領、更始帝(劉玄)配下の武将であった。光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。 == 事跡 ==
=== 緑林軍の挙兵 ===
王莽の統治の末期に、弟の仇を討ったために江夏郡へ逃亡した。その後、王匡、王鳳を頭領とする緑林軍に加わり、偏将として活動する。 地皇3年(22年)、疫病により緑林軍を分散しなければならなくなると、成丹・張卬〔張卬は、『後漢書』劉玄伝によると新市軍に、同王常伝によると下江軍に合流したとされているが、本記事では後者をとる。〕とともに藍口聚(南郡編県)へ向かう。そこで自軍を「下江軍」と号し、王常はこの軍の頭領とみなされた。まもなく新の納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂の攻撃を受けて下江軍は大敗する。しかし石龍山・三鍾山(南陽郡隨県等)付近で再び勢力を回復した。その後、王常らは上唐郷(南陽郡舂陵県)で荊州牧の軍を撃破し、宜秋聚(南陽郡平氏県)を拠点としている。 同年末、舂陵軍の劉縯(劉秀の兄)が合流を求めて宜秋聚に交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし合流を望む王常は、「南陽劉氏の者たちは皆深謀遠慮があり、必ずや成功する」と説得し、2人を始めとする他の下江軍部将にこれを承認させた。地皇4年(23年)1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、泚水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、屬正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。
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